昭和43年1月8日 夜の御理解
皆さんもご承知であろうと思うけれども、この6日から全国一斉に寒中修行が始まっております。今までなかった教会行事でございますが、まあ異様なまでに皆さんの熱意が朝の御祈念に感じられます。今日は皆おかげを頂いて、初めの日に、ある方がお願いをして、どうでもおかげを頂きたい。
それでもう、親先生が御祈念を奉仕される前に、出てきて、この一月だけはどうでも修行さして頂きたいと言うてお願いをしておった方が、今日、お参りはしてきよったけれども、時間が御祈念半ばに参って来よった。私はここで、今日、時間を、今日で3日目ですが、ね、遅くなしましたことをお詫びしておられました。
★そしたら、神様からですね、ちょうどあの、ペンギン鳥が歩いておるような格好ですよね、ね。こう立って歩いておるでしょう、ペンギン鳥が。それは中腰になって、その人が歩いているんですよ。ちょこちょこちょこちょこ、中腰になって、ちょうど形がペンギン鳥が歩いておるような感じなんですね。
これではきついということ。中腰であられたんでは、ね。本腰にならにゃつまらん。中腰じゃきつい、ね。だから、本腰にならなければだめなんだ。本腰になりゃあですね、楽なんです。まあ例えて言うなら、ここに永瀬さんなんかが、長い間、朝の御祈念に参られます。それこそ晩、総代会とか壮年会には必ず出席されて、または、遅うまで会議がございますと、もう一時二時になるようなことがある。それでもちゃんともう、5時の御祈念に出てきておられますもんね。あれは、本腰になっておられるからできるのです。
だからね、なるほど神様にさせて頂く信心、させて頂く修行というのはですね、こちらが中途半端なことでさせて頂くとできん、難しい、ね。ですから本腰になりゃあ、神様もやっぱり本腰になって下さる。だから、楽なんです。ですからね、形の上でのお繰り合わせ、心のお繰り合わせを願えと仰るが、本当に心にそういう本気が出るような願いを立てなければいけないということが分りますですね。もう、本腰。
本気で神様へ願うと。それも形のことじゃない、まず心の上にそういう、ね、本気でそう思わせて頂けれるようなお繰り合わせを願わしてもらう。
昨日、昨日でしたかね、日曜。久留米の「?」さんがお参りして見えて、朝方のお夢に寒修行のことをお願いして休んでおられた。もう3時になった、4時になった、さあ、起きらにゃんと思いながらも、うとうとっとこうした時に、頂いた、そのお知らせですね。「改まって、改まって、清まって、修行にかかれ」という意味のことを頂いておられます。
だから、修行そのものが清まるのじゃなくてです、もうその修行に本気でかかる前に、まず改まって清まってというようなものがいるんです、ね。その改まって清まってというその心でです、どうぞこの寒中修行を遂行さして下さい。どうでもこの修行をさせて下さい。そういう願いから、私は本腰のものが頂けるのじゃなかろうかとこう思うんです、ね。いや、改まってからではなく、改まってということは本当に日々の改まりが大事と仰るのですけれど、本当に改まろうと思うて、改まれる。または、改まらなければならないということをです、気が付かないでおったとこう。
今年の、まあ目指しであるところのひとつ本気で、大いなる豊かな心をもって、おかげを頂いていこうと。もうここへ今年は焦点を。いよいよ、大いなる豊かな豊かな心で、おかげを頂かしてもらう。そこには、神様がもうやむにやまれぬ思いで、いよいよ、大きなとこう仰る。いよいよ大きなおかげを約束して下さると私は思う。ね。やはり、大きなおかげだけを頂きたいじゃなくてから、まず、その受け物であるところのいよいよ、大いなる豊かな心を目指さなければ。
イライラすることもある。モヤモヤすることもある、ね。ですからそれに気が付かない、自分じゃあ気がつかない時にモヤモヤしたり、そのイライラしたりしておるようなこともある。気が付いたら今年は、豊かな心が、大きな豊かな心でと、大きな豊かな心でとこう、今年の信心の心情をですね、思い出させてもろうてそれに取り組んでいかなければならないとこう思うのです、ね。
どうぞ、皆さんが本気で寒修行にでも参加さしてもらう。中腰じゃつまらん、きつい。ペンギン鳥のような歩き方では、ね。中腰でこう歩いてみなさい、それはやっぱりきついですたいね。ずっと腰まげて歩かんなんちゅう。本腰になって、ちゃんと腰をすえて、ね、歩き出しゃあ、楽に歩けれることを、やはり、自分の本気がないためにできないのです、ね。
だから、ここんところをひとつ、自分達がいかに本腰でないかというところをひとつ、分らしてもらわなきゃなりません。改まって言うことなんか私、今日、この奥の歯がえらいこう、響く。冷たいものを飲む度に、そのだから、冷たいものを飲まなきゃできんです、私、お水をたくさん頂きます。それでその、お水を頂かれんのです。ああ神様も、頂くなと言いなさるとじゃろうかと、私は思うんですけれども。家内にちっとここが腫れとりゃせんかて私が申しましたら、あなたいつもぼうっとしとんなさるけん、腫れとるかどうか分らんですよっちゅうですもん(笑)、私はほんなこてですね、私はそげんいつもぼうっとしとるじゃろうかと思うちから(笑)。
今日、お風呂頂きよったらです、そしたら、私はもう光昭が入って来たかと思ったんですね、一人で入っておりましたら。だからいわゆる、やっぱりぼうっとしとるわけ。ぼうっとしとるっちゅうのは(笑)、ね、にこやかじゃないわけです。ところが、先生、背中流しましょうかっちゅうとがその光昭の声じゃないですもん。何と「よしひろ?」さんが入って来たんです。途端に私の心がですね、こうにこやかになってるんです。はあ、今日、家内が言うたことと、今、私が感じたこと。この辺にですね、それこそ、誰かがこの頃、言ってましたが。
ひとつの盲点というのがあるなあと私は思うたんです。自分で気が付いてないとこう、ね。で、今日は、そういう家内にその、あなたがいつもぼうっとしなさるけん、腫れとるじゃどうじゃ分らんと。(笑)。言われる時までそうでもなかったけれどもです、ははあ、「よしひろ?」さんならにこやかになり、光昭ならば、ぶうっとしとるわけじゃなかろうけれどもですね、日頃の持ち顔がそげんしとる(?)ではないけれどもです、ね、子供だって、「よしひろ?」さんだって、同じでなからにゃいないということをですね、これは私は改まらにゃいけんなあと思うんです。
もうだんだんですね、もう本当に、まあ言うならば蝶よ花よで子供を育てます。そしてそれが15になり、18になり、20にでもなってまいりますとです、今度は親の方が易かごとなってくる。( ? )くる。いや、ほんなこっですよ。それは別に皆さん、そげなことなかろうけれどもです、私は夕べですね、遅うから若先生と、徹君がすき焼き、(?)なるけんすき焼きするっちゅうん。
そして私は(ごはんばし?)頂いとらんじゃろうと思いよってですたい、私はご飯頂いたのにご飯頂くっちゅう。豊美に水、出しよりました。それは、そしたらあの、若先生とあちらの蔵の2階でやろうっちゅうわけなんです。わざわざ(しちじゅう?)をこらしよりますもん。今日はもう、また飲むとじゃろうかと思うてですね、ただそれでもないすき焼き食べるだけのごたるふうで、ね、もうああいうことを年寄りはだいたい嫌うんですよね。
例えばなら、徹君どんでも、若先生どんで、夜、夜中にですよ、もう12時ぐらいからですから。もうこの人だけは。そしてそれをちっと片付けてでも休みゃええけれども、朝、お母さんが起きてしてくると、テーブルの上はこうやって食べ散らかしてある。ほんな徹ばっかりはとか、若先生ばかりはとかとやはり思うです。
そうかと言うて、もうわざわざ向こうの蔵での、飲んだり食べたりせんでも、お前は、お父さんもここですっと、お父さんも食べらるけんで、あっちからこっちさ持って来いと、あの(しちりん?)もおこさんでよいじゃないかと私は。したらそれを気に入らんごたるふうでですね、ああもうそれこそあなたもう、それけんまあ、おりかえ来ました。こう入ってから、若先生、徹でん、入って来ました。(笑)
それがもう、ほんなもういらんことばっかり言うちからちゅうごたるふうな態度に、私は見えたんですよ、少なくとも。私、(えすかったです?)、子供も、暴力でその俺が強かぞっち(笑)。ほんに、子供ん時にはね、蝶よ花よで親は育てといて、まあそら年の二十歳にもなるとですよ、親の方が譲らにゃんごたるふうな態度をとられまして、こりゃかなわんと思いましてね、いや、本当ですよ、ね。豊美達でもそうです、もう本当に家内どん、あなたもうほんな( ? )してから、これを消して下さいちゅうごたるふうですよ。それで、する時もありゃあせん時もあるっちゅうこと。
たいてい、親がもの言えん悪かっちゅうごたるふうなことを平気で言うたりしたり、してるのを見てですたいね、思うんです。本当にあのね、親が機嫌とらねばならんような、言わば成長の仕方じゃあいかんち。親がいつも子供の顔色ばっかり見とらんならにゃんようなことじゃあいかんて。というようなことを思わして頂きながら、なら私自身がそう思うたんですよ、ね。
家内から言われて、私はいつもぼうっとしとんなさるけん、腫れとるじゃそれは分からんとこう言う。本当に腫れとるとじゃろうか分らんくらい、こうばこっちがしとるばいと思うてですね、これは子供じゃあない、まず親がいっちょん改まって。これは五十枝にも今夜のことを聞いてもろうて、お前も違わんごと、それこそ、いつも冷たい、(ついばったような?)顔をしとるから、豊美どんが好かんとぞと、一応今日は、夫婦でね、改まらして頂こうと。
そしてから、若先生じゃない徹じゃない、お互いが皆です、お互いの家庭にね、そういうようなふうに、私はこの頃思うたです、この頃、あの、森脇君が仕事のことで、親父と2人でそこへお届け来とるとですたい。もう私どんあいさつはもうこうしとるじゃん。お父さんがここで横でお届けしよっとじゃん。そげなこつなんの、そげなことなかばのっちからもう、あなた、私が前でですね、言うとですもん。
この人ばっかりはもう人前でにこにこしとるばってん、これは(うちまえがわるかんがい?)なと思うて、思うたですけれどもです、これは本当いっちょ若い皆さんがて、改まらにゃいかんです。子供はですね、だんだんだんだん、成長してくると楽しみでしょうが。成長していくに従って、心配になる、ほんなこて、腫れ物を扱うようにして、若いもんば扱わんにゃんごたることじゃあ親子の幸せはないと私は思うんですよ、ね。
そりゃ根本的なことじゃないですよ、皆さんが不良児じゃないのだから、ね。けれどもです、不良児じゃなくてもです、そういうところにね、もうちっと信心をきかせていかなければいけないな、そういうところなら改まろうと思えや、改まれるんだと私は思うのです、ね。そういうひとつの改まりをもってです、ね、だからそういう、なら親子の仲にでも家庭の中にでもです、そういうふうなところを改まっていこうという願いを立てて、そして、例えば本気でです、なら寒中修行にでも参加させて頂こうというような気になる時に、私は本腰になる、いや、心のお繰り合わせが頂けれると思うんですよね。どうぞ。
明渡真